藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

メキシコの人たちから考える

     

     メキシコの人たちから考える
 40年前に、東京 市ヶ谷のTIC Tokyo   International   Center    でJICAの研修員に日本語初級を教えていた時、様々なコースがある中で、メキシコの職業視察コースのようなのがあって、メキシコ人ばかりに1~2か月、日本語を教えたことがある。
 ある日、授業に行くと、一人いない。どこにいるか、他のメキシコ人に聞くと、下を指さす。下を見ると、いなかった一人がテーブルの下に寝そべっている。こういうことは日本人なら決してしない。本人はユーモアのつもりのようだった。
 また、ある日、一人がボケーっとしていると、他のメキシコ人が A que  te   expones  ? と聞いた。何のことかと後で調べたら、expones  は英語で言えば expose で、「あなた」が主語のときの形で、文意は「あなたは何をさらしているのか、暴露しているのか→ぼーっとしているのか?」という意味のようだった。 外国語というのは、こうして一つ一つの場面で学習していくものなのかもしれないと思った。 
 いや、母語でもそうで、幼児は三歳ぐらいまで喃語期で 、あーとかうーとかしか言えないが、それまで膨大な場面で膨大な言語量を聞いているのである。本人の能力にもよるだろうが、その中から言葉を学んでいく。たくさん聞いてその中から一部、発話するようになる。たくさん聞かせて、話したくなるまで聞かせるというのがクラッシェンという学者による外国語学習法である。Natural   approach  という。

 認識しないとだめだろうという考えもある。言語が先か、認識が先かというのは欧米の二項対立的な思考法に毒されているので、西田幾多郎は人は生まれてはじめて光を見たたとき、見た光と人は一体である、と言い、それを純粋経験と名付けている。
 言葉のとらえ方も洋の東西でずいぶん異なる。キリスト教の影響からであろう、西洋は言葉を重視する。東洋、日本では「空気」が大切である。東洋と言ってもいろいろだろう。こうしたことを研究するのが比較文化学であるが、大学ではそういう研究はあまりなされていない。欧米中心の学問が幅を利かせているからである。分析的に、より細かく、ち密に、が欧米の研究の基本である。総合的に、比較的に、というのは好まれない。数値化するのが難しいということもある。ただ現実には、数値化が至上命令のようになっている。コンピューター化がそれに拍車をかけている。結局、猿真似のうまい、上に従順なのが大学のセンセイになる。一面の真理は衝いているだろう。すべての大学の先生がそうだとは言わないが。 

 自分の好き嫌いはその文化の好き嫌いの反映である場合が多い。そうした好き嫌いの淵源を暴くのが、本来の比較文化学のすべきことである。そうした研究は、ほとんどないのが現状である。


                            2023.4.12   水

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