藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

ミャンマーの人のこと

  

     ミャンマーの人のこと
 二十年前に日本語初級を教えていた時のことである。二人のミャンマーの女性がいた。20代後半から30代前半だった。2か月ぐらい日本語初級を勉強してから和歌山大学へ勉強に行った。教育関係の人たちだった。20代後半か30代前半で小学校の校長先生をしているとのことだった。若い国は若くて要職に就く。明治の日本のように。
 ミャンマー語には、日本語の「しか~ない」と同じ表現があるとのことだった。英語や中国語には「だけ~ある」という表現しかない。
 ミャンマーと日本は関係が深い。竹山道雄『ビルマの竪琴』という小説がある。
 タイメン鉄道というのがあって、援蒋ルートがあり、蒋介石への援助ルートを妨害するために、戦争中、多くの日本兵が動員された。「死のバターン行進」というのがあった。かなり悲惨な戦闘があった。現在では、日本陸軍上層部の無責任な決断のせいとされている。
 ミャンマーの人は温厚である。微笑みが多い。やはりアジア的な、自己主張でないやさしさが中心として感じられる。
 軍事政権が続いているようだが、政治的には強権主義が跋扈しているようだ。ただ、そうした強権主義が跋扈する理由として、言語を異にする部族、民族がたくさん存在するということがある。それに、ロヒンギャのような宗教間の対立が絡んでくるとよけい難しくなる。まとめるには辣腕家が必要になる。しかし、民衆は自由を求めている。
 国民国家に発展出来たのは世界のごく一部で、半分以上は国民国家にならなかった地域である。そうしたことはテレビのニュースを見ているだけではわからない。テレビのニュースはワシントン発の猿真似である。そのことから認識を新たにしたい。国民国家の基本には個人の私有制が確立することがある。しかし、それが確立しない共同体社会も多いのである。西洋の在り方がすべてではない。マルクス主義も西洋の発展を規範とした一方向の発展モデルに過ぎない。価値も労働だけではない。善意も価値じゃないか?金ですべてを評価する社会はみんなが不幸である。持てざる者は嫉妬し、持てる者は奪われないかと疑心暗鬼になり、塀を高くして孤独にさいなまれる。



                        2023.4.17   月曜日

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