藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

日本語は述語中心言語

   


     日本語は述語中心言語
 日本語は述語中心言語で、最後まで聞いてみないと、考えがよくわからない。
 英語や中国語は主語―述語中心言語で、最初に結論を言うと言われる。
 「トンネルを抜けると、雪国だった。」川端康成の『雪国』の冒頭部分だ。「何が」「誰か゛」トンネルを抜けたのか。英語母語話者はそう聞く。言葉はくせがある。何を中心にして述べるかは言葉によって異なる。
 「何が」「誰が」トンネルを抜けたのかと問うより、トンネルを抜けると「雪国だった。」という状況の変化に注目するのが日本語という述語中心言語である。優劣の問題ではない。
 否定疑問文の答えが、Yesが「いいえ」になり、Noが「はい」になる(例えば、Don't you  go  there ?  に対して、 Yes,Ido.    No,I  don't.    と答える際の最初のイエス、ノーの日本語。)のは、日本語の非論理性、状況依存性によると40年前にはまことしやかに言われていたが、いまそういうことを言う人はいない。
 大事なことは、異なる言葉と折り合いをつけるにはどのように言えばいいかということで、言語の対照研究はそうしたことを研究する重要な分野なのだが、細かい分析的研究が中心で、「象牙の塔」の研究が中心なのは、嘆かわしいことである。
 英語も日本語との対照研究をもっとすればいいのに、英語中心の研究しかしないのは、英語を一番とする日本人の奴隷的言語観、文化観によるのではないかと私はひそかに思っている。今日も英語奴隷が英語の勉強にまい進している。
  日本語と英語の違いを対照言語学的に明らかにしない並行関係として、日本とアメリカの文化の違いを比較文化学的に明らかにしない現状がある。言葉と文化は密接な関係があるというのは本質的にはそういう意味においてである。





                        2023.5.25    木曜日

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