藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

京都はいつから観光都市か?  三

         京都御所  紫宸殿


   京都はいつから観光都市か?  三
  江戸時代には数々の名所が京都で定着し、葵祭や京都御苑も行事、観光スポットとなった。
 江戸中期、禁裏御所へ参内する公家を見つめる人々が名所図会に描かれ、「参内」は京都でしか見られない唯一の要素として、京都観光のメインイベントだったと京都大人文科学研究所の高木博志教授(日本近代史)は言う。
 公家が参内する公卿門(宜秋門)前には、見物人に酒や肴を売る茶屋があり、人々は「一杯やりながら」参内を眺めた。 
 江戸期、天皇が暮らす御所内も正月の舞楽の御覧や節分の日には庶民の立ち入りが許され、天皇の即位式には観衆で大いににぎわったという。
 高木教授は「近世の御所や公家町は開かれた空間で、様々な身分の人が出入りする場所だった」と解説する。
 明治に入り、首都が東京に置かれると、京都観光に大きな転機が訪れる。


                     京都新聞 2023.6.10 土 夕刊


    ノート
 京都御所には東西南北に門が多く設けられ、大正10年まで人々は自由に中に入れず、門衛が門を守っていた。
 内村鑑三が嫁の実家からもらった餅を自分のふがいなさから鴨川に投げ捨てたのは、明治20年代ことだろうが、鑑三は御所の西の当時の住居から御所を迂回して当時の鴨川に行ったはずである。門衛がいて、御所を横切れなかったろうから。                                                                                  しかし、上の記事を見ると、権力、権威も「ゆるい」ものであったことがうかがい知れる。 こうした記事が新聞に掲載されるようになったのも左イデオロギーの衰退という時代状況を反映しているのであろう。


                             2023.6.21   水曜日

×

非ログインユーザーとして返信する