藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

柳父章「日本文化にとって漢字とは何か」から考える

  

     柳父章「日本文化にとって漢字とは何か」から考える
 柳父章氏によると、日本人、日本文化にとって、漢字とはまず「形」である。
 一般的には漢字は「形音義」の三つを持つとされるが、柳父章氏はもっと本質的なことを言っている。つまり、どのようにして日本人は外来の漢字を受け取り、どのようなものとして扱ってきたかということを問題にしているのである。
 漢字がまず「形」であるというのは、日本人は中国から伝来した漢字に対して、最初、何のことかわからず、その「形」をそのまままねたり、写したりした。やがて何となくイメージとして「山」なら「山」のイメージを持つようになる。それに日本にある「やま」を当てはめたり、「やま」以上のなにものかを付け加えたりした。
 重要なことは、正確にその漢字の意味を捉えたのではなく、元来の漢字の意味に日本的なイメージを付け加えたりして、新たな漢字の意味を作ったことである。
 文學で言えば、元来、科学の冷徹な法則である遺伝や血をもって表現することを主張したフランス流の「自然主義」は、日本では、事実と真実を混同した、人間の内面暴露を主とする日本的な「自然主義」に変貌して、1906年から1910年まで流行したということである。
 文化というものは前代のものを矯めながら、新時代のものを受け入れて形成されていくものである。前代の文化と次の時代の文化の拮抗によって現在の文化がある。それもグラデーションで考えなければならない。大学の授業を英語ですれば、いいというわけではない。それについていけるのかといった問題があるし、英語だけで授業をするというのは、固有の文化が弱く、英語に圧倒されてしまったからなのである。属国となってしまっているからである。
 ある大学では、学生がついてこれないので、同じ授業を午前は英語で、午後は日本語でするそうである。アジア太平洋とかなんとか、広い地域を名前にしている大学である。よう知らんけど。



                            2023.8.17   木曜日

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