藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

太宰治と井伏鱒二

      太宰治                 井伏鱒二     
 太宰治と井伏鱒二
 太宰が1935年4月の虫垂炎などの手術後、鎮痛剤のパビナールを多用して、依存症になり、井伏鱒二が説得し、翌年10月に入院させた。入院前に、佐藤春夫が太宰の芥川賞受賞を確約したかのような内容を、太宰が小説で暴露し、佐藤を激怒させた。太宰は当時、パビナール依存で経済的にも困窮し、多額の賞金が得られる芥川賞受賞を熱望していた。第一回で落選した後、36年1月には、「私を見殺しにしないで」などと受賞を懇願する長さ4メートルに及ぶ手紙を選考委員だった佐藤に送付。しかし第二回、第三回では候補入りすらせず、追い詰められていた。
 井伏は太宰を並々ならぬ努力で入院させたが、太宰はそれを井伏に「だまされた」と認識していて、太宰は追いつめられた時には井伏を「悪役」として、そうでないときには「よき師」として井伏を捉えるようになった。その振れ幅は最晩年まで続いた。(このパラグラフは太宰研究で知られる安藤宏・東京大教授の話)   2023.9.30 土 京都新聞夕刊記事


   ノート
 太宰の師は井伏鱒二。井伏の師は佐藤春夫。意外である。太宰のような「生まれてきてすみません」的主観オンパレード男の師が客観描写の井伏鱒二とは。また客観描写の井伏鱒二の師が抒情的な作品「田園の憂鬱」を書く佐藤春夫だとは。
 作品からというよりは人間の相性によっての師弟関係ということか。
 太宰は1948年に38歳で死去したが、井伏は太宰の故郷青森県に文学碑を建てるために尽力し、井伏が碑に刻む文章や石のサイズを佐藤春夫に詳しく報告する書簡が最近、新たに見つかっている。書簡は9月30日に神奈川近代文学館で始まる「没後30年井伏鱒二展」で公開される予定。


   参考知識
1948年、太宰治は命を絶つ。玉川上水での心中自殺。
葬儀では、井伏鱒二が弔辞を述べた。


 太宰君は自分で絶えず悩みを生み出して自分で苦しんでいた人だと私は思います。四十才で生涯を終ったが、生み出した悩みの量は自分でも計り知ることが出来なかったでしょう。ちょうどそれは、たとえば岡の麓の泉の深さは計り知り得るが湧き出る水の量は計り知れないのと同じことでしょう。しかし元来が幅のせまい人間の私は、ただ君の才能に敬伏していましたので、はらはらさせられながらも君は悩みを突破して行けるものと思っておりました。しかしもう及ばない。私の愚かであったために、君は手まといを感じていたかもしれません。どうしようもないことですが、その実は恥じ入ります。左様なら。


井伏鱒二『弔辞』1948年6月21日 太宰家にて


  井伏鱒二の太宰治の才能への「敬伏」が述べられています。井伏は自分にないものを太宰に見出し、それに「敬伏」していたようです。
                              2023.10.9  月曜日

×

非ログインユーザーとして返信する