藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

 江戸時代をどう評価するか       2024.2.2

     江戸時代をどう評価するか
 明治時代のはじめ、明治時代を作った人々の自らが打倒した江戸時代への評価は低く、人々はあまり江戸時代について語らなかったが、勝海舟だけは例外で、江戸の悪いところを少し直すぐらいでいいと考えていた。勝海舟は日清戦争にも反対で、日中韓が連合して欧米に当たって行けばいいと考えていた。文明開化とは、西洋基準で物事を考えることであったが、それに掉さす人もいたのである。
 杉浦日向子という人は、江戸時代のイメージを一新し、自由でお気楽な生活をしていた江戸時代をイメージして、それを人々に与えた。小谷野敦氏はそれに水を差し、病気になったら、野垂れ死ぬしかないような江戸時代が気楽な時代とは言えないと反論した。
 2024.1.13 の京都新聞夕刊大橋幸泰早稲田大教授の江戸時代再考の記事が載っていた。↓
 大橋氏は言う。士農工商という身分制度の存在は最近の研究で否定されてきている。宗教活動も仏教、神道にまたがる場合が普通で、潜伏キリシタンも寺や神社の活動に参加し、「村請制」のために、宗教上の属性より、村民という属性を優先して、物事を考え、行動していた。
 多様性のあった江戸時代が終わり、明治になると、国民という一律の型にはめられ、国民のあるべき姿が教育されていく。天皇中心の新秩序をつくるために、神仏分離令が出されて、あいまいさや多様性が否定され、一律・統制の方向に突き進んだ。
 現代社会では多様性が尊重されているというが、国立大では現在、理系偏重で、人文科学が目の敵にされ、日本史(古代・中世それぞれの専門家がいるのが普通)の教員が一人しかいない国立大も出てきている。
 科学技術一辺倒に陥らないように、多様な学問が必要だ。様々な価値観が共存していた江戸時代に学ぶことがあると思う。(以上、大橋氏の考えをまとめたもの)


    ノート
 安倍一強10年の時代に大学も文科省の統制が強くなった。補助金を減らせば、大学などは簡単につぶれてしまう。国立大学は文科省の意向を必死で見極め、追従し、補助金を多く得ようとする。そうしたことをした理事が羽振りがよくなる。もともと東大も工部大学校が始まりで、お国のために金もうけになる研究をするのが中心だった。最近は文系も博士号をとらないと教員になれないから、上の顔色を見て上の眼鏡にかなう研究しかしなくなっている。理系は以前からずっとそうだ。文系で現実に常勤教員になって教えるのは、幼稚園みたいなレベルの外国語教育や新書レベルの知識だ。大学はすでに崩壊している。それでも行くのは、習慣と生涯賃金がサラリーマンになる場合、高卒と4000万円ほど差があるからである。Fラン大学の存在価値はそんなところにある。ある人がある中堅私立大で非常勤で語学を教えていたら、「大学なんて、来たくなかったんですよ。」と言う学生がいた。授業態度が悪いので、授業後、呼んで、話をするとこの言いよう。下のレベルの大学に行くほど、こんなのがたくさんいて、教員は不愉快な思いをするようだ。ある大学では、授業中、後ろのほうではコンパクトを出して、化粧しているのがいるそうだ。Fラン大学である。Fラン大学の学生がすべてダメだとは言わないが。
 江戸時代もいい面、悪い面の両面がある。どちらかが強調されるのは、時代の要請、影響による。そのことを見極める知性を持ちたい。ゲスマスコミの報道を鵜呑みにするのは愚の骨頂である。


                          2024.2.2    金曜日

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