藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

大本教が発展した時代背景 2024.3.20

      大本教教祖  出口王仁三郎
   大本教が発展した時代背景
 新宗教を考えるとき、病気なおし(現世利益)、心なおし、世直しの三つの関係を見ることが重要だろう(p.88)。
 大正期から昭和初期に大きな勢力となった大本教は、習合神道系では世直しの側面が強い新宗教の典型的なものだ(p.89)。
  大本教は1892年(明治25)に始まったと言われているが、急速に拡大したのは、大正時代の初期(1910年代)である。そして、1921年(大正10)に最初の大きな弾圧をうけた。大本教の存在は昭和初期までに急成長した習合神道系の教団として目立つが、急成長した一つの理由は、「世の立て替え立て直し」を掲げ、「大正維新を唱えたからだ。
 当時、社会主義が広まり、海外ではロシア革命がおこり、帝政・王政が次々と倒されていった。日本に亡命したロシア人菓子職人はモロゾフなどのロシア菓子店を作った。「改造」という言葉も広まった。こうした中で、大本教が広めた「大正維新」という言葉は新鮮だった(pp.89-90)。
 「大正維新」は「昭和維新」を引き出す要因となり、1918年には米騒動が起きるが、貧富の差、社会格差を変えていく可能性が強く意識され、「社会改造」の意識が広まり、労働運動、小作争議などが起きていた。大本教はこうした「改造」=「世直し」の動きに乗って急速に大教団へと発展していった(p.90)。  島薗進(2020)『新宗教を問う』ちくま新書


   ノート
 高校歴史教科書で教えるのは、大本教が二度の弾圧を受けたということどまりで、上記のような社会の「改造」の意識の高まりの中で「昭和維新」の呼び水としての「大正維新」を唱えたことが大本教の大教団への発展の要因であったことを教えてくれない。
 歴史は連続で見る必要がある。また他との関係性で見る必要がある。それが比較文化学の視点である。歴史、文学、美術、政治、経済の知識を「総合」しなければならない。
 「大正維新」から「昭和維新」へ。歴史の連続の視点。
 他宗教と異なり、「世直し」を掲げた大本教。他宗教との比較の視点。
 大本教の第一次弾圧事件は、1921年であるが、そのときは天皇にとってかわろうとしたという嫌疑は証明されず、不敬罪などの軽い罪にしか問われなかった。
 その後、大本教は、従来の世直しの教えをやや和らげ、「鎮魂帰神」という神がかりの儀式を取り下げた(p.199)。国家に対して忖度したのである。国家権力が干渉してくると、たいていの宗教は国家へ忖度しておとなしくなる。ましてや病気なおし、心なおし中心の宗教が体制擁護の温床となるのはよく見受ける例である。と言って、狂った「世直し」だけでは国家の干渉、弾圧が行われる。
 大本教から霊友会が出来たそうだ。


                             2024.3.20   水曜日

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