1935年 2024.3.25
1935年
1935年 2月18日 菊池武夫、貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を攻撃。天皇機関
説事件の始まり。
8月3日 政府、天皇機関説は国体に反すると声明(第一次国体明徴声明)
8月12日 永田鉄山陸軍省軍務局長、陸軍省内で皇道派の相沢三郎中佐に
刺殺される。
9月30日 和辻哲郎『風土』刊。
12月8日 大本教出口王仁三郎ら幹部30余人逮捕(第二次大本教事件)
(36.3.13 結社禁止 36.5.18 本殿爆破)
1936年 2月26日 二・二六事件 皇道派青年将校、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相
らを殺害。
ノート
第二次大本教事件が起こった年は、統制派の永田鉄山が皇道派の相沢三郎に刺殺された年である。勢いに乗った皇道派は翌1936年、二・二六事件を起こすが、この事件で、皇道派は勢力を失い、統制派が力を持ち、東条英機が実権を握っていく。
有無を言わせぬ暴力がまかり通り、軍部の力が強くなる過程で、大本教は壊滅状態に陥れられる。
そんな中、和辻哲郎の『風土』が発刊された。それはマルクス主義への対抗概念として「風土」を提出し、世界の風土を牧畜型、モンスーン型、乾燥型に分けて、「風土」の人への影響を説明したものであった。(マルクス主義的な「環境」という言葉を使わないのがみそ。そのことを研究書はほとんど言わない。変なの。)和辻哲郎の『古寺巡礼』(1919年 初版発行)は戦争中に戦争に赴く青年が携えて奈良の古寺を訪れ「美しい日本」を見納めにするガイドブックの役割を果たした。現在の奈良観光はその延長線上にある。比較文化学的にはそうなる。現在ある事物の淵源を訪ね認識することも比較文化学である。現在行われている宮中行事は「勤労感謝の日」(かつての新嘗祭)以外は明治になってから、天皇の神格化のために作り出されたものである。そうした情報がないと、天皇の宮中行事が太古の昔から行われていたような幻想を抱いてしまう。正親町天皇は天皇の譲位の儀式が貧困でできず、そこに信長が目を付けて経済的支援を行いましょうと近付いて天皇の権威を利用しようとした。
歴史学者は客観的事実にこだわり、人々の思いをあまり述べない。そうすると、権力に都合の悪いことが出てくるからではないか。まともな研究の訓練をしている人なら、あまりに主観的なことは研究者の良心があるから、言わないはずだ。マスコミという「売らんかな」精神の輩が主観的な突拍子もないことを言ってもいいという風潮を作り上げたのではないか。
2024.3.25 月曜日