ロシアで反戦デモ 1912年(明治45・大正元)―1914年(大正3)の漱石の俳句 1912年 秋風や屠られに行く牛の尻 1914年 秋風の聞こえぬ土に埋めてやりぬ 1912年 「秋風や屠られに行く牛の尻」 9月26日に痔の手術をし、その入院の際を回想した句(坪内稔典(1990)p.182)。自分を牛に見立て、更に痔の主術をしたから「屠られ」とし、「尻」とする…
1908年(明治41)―1910年(明治43)の漱石の俳句 1908年 この下に稲妻起る宵あらん 1909年 黍行けば黍の向ふに入る日かな 1910年 あるほどの菊抛(な)げ入れよ 棺の中 1908年「この下に稲妻起る宵あらん」『吾輩は猫である』のモデルになった猫が死に、墓標の裏に書いた句。猫の目を稲妻とたとえる。 1909年9月から10月にかけて満干旅行をした際…
1904(明治37)―1905年(明治38) 日露戦争 1905年(明治38)―1907年(明治40)の漱石の俳句 1905年 朝顔の葉影に猫の目玉かな 1907年 時鳥(ほととぎす)厠(かわや)半ばに出かねたり 桔梗活けて宝生流(ほうしょうりゅう)の指南かな 「朝顔の葉影に猫の目玉かな」写生的な俳句。カメラでワンショット、SNSにアップという感覚の句である。…
もの草太郎 1903年(明治36)―1904年(明治37)の漱石の俳句 1903年 無人島の天子とならば涼しかろ 楽寝昼寝われは物草太郎なり 衣更(かえ)て見たが家から出て見たが 1904年 白菊にしばし逡巡(ため)らふ鋏(はさみ)かな 「無人島の天子とならば涼しかろ」熊本の俳人、井上藤太郎宛の手紙に記…
ロンドンから友人へ漱石が書いた絵葉書 1900年(明治33)―1902年(明治35) の漱石の俳句 漱石イギリスへ留学す 1900年 阿呆鳥熱き国にぞ参りたる 稲妻の砕けて青し海の上 空狭き都に住むや神無月 1901年 吾妹子(わぎもこ)を夢見る春の 夜となりぬ 1902年 筒袖や秋の柩にしたがはず 1900年、5月12日、文…
1898年(明治31)-1899年(明治32)の漱石の俳句 1898年 行く春や猫うづくまる膝の上 1899年 秋はふみわれに天下の志 むっとして口を開かぬ桔梗かな 安々と海鼠の如き子を産めり 漱石にとって俳句とはいかなるものであったか。『草枕』に次のようにあるのが、最もよく言い表している。「まあ一寸腹が立つと仮定する。腹が立った所をすぐ十七字にする。十七字にす…
木 瓜 1897年(明治30)の漱石の俳句 木瓜(ぼけ)咲くや漱石拙を守るべく 『草枕』で漱石は「節を守る」人は、 来世で「木瓜になる」、「余も木瓜 になりたい」と言っている。「拙 を守る」とは「己の天性に従って世 …
1896年(明治29)の漱石の俳句 擬人の句 物言はで腹ふくれたる河豚(ふくと)かな 永き日や欠伸(あくび)うつして分かれ行く 「松山客中虚子に別れて」と前書。客中は 旅にあるあいだ。坪内稔典編(1990) …
1895年(明治28)の漱石の俳句 事跡 時代背景 1895年の漱石の俳句で目に留まるのは以下のものである。 見上ぐれば城屹として秋の空 この年、四月から漱石は一年間、愛媛県尋常中学校 嘱託教員として松山に滞在した。 坪内稔典編(1990)p.16 御死にたか今少ししたら蓮の花 「弔古白」と前書。御死にたかは、死なれたかという意味の松山弁。古白…
子 規 漱 石 1892年(明治25)の漱石の俳句 子規への友情・配慮 もともと俳句を始めたのは子規との交流に端を発する。1892年(明治25)漱石は次の二句を作っている。 鳴くならば満月になけほととぎす 学年末試験で落第した子規に、大学を やめないで「卒業するが上分別と存 …
1891年(明治24)の漱石の俳句 夭折した兄嫁への哀惜の念 1891年(明治24)7月28日 兄嫁の登世が夭折し、漱石は哀惜の念を表出した俳句13句を作っている。以下、その一部である。 わが恋は闇夜に似たる月夜かな 江藤淳によると、漱石は兄嫁にほのかな恋情 を持っていたという。 朝貌や咲いたばか…
アサヒビール大山崎山荘美術館 1915年、死の前年に京都の山崎を訪れた漱石 山荘の命名に王維の詩を候補として挙げる 夏目漱石は、生涯に4度、京都を訪れている。大正4年(1915)、最後に訪れた際に大山崎山荘の持ち主である加賀正太郎と出会い、加賀の山荘を訪れた。この4度目の京都への旅は、体調の思わしくない漱石の療養の為に京都へ誘ってくれと妻鏡子が友人で画家の津田青楓 に頼んだ旅であった。 …
王維 「竹里館」 独坐幽篁里、弾琴復長嘯、深林人不知、明月來相照。 一人、竹林の中に座り 琴を弾いて、また長くうそぶく 深林は人気がなく、明月が来て照らす 漱石と本歌取り ものいはず童子遠くの梅を指す (明治32年) この俳句は杜牧の「清明」の漢詩の後半 「借問す 酒家はいずれのところにかある 牧童はるかに指さす 杏花の村」の本歌取りである。(半藤一利(1997)『漱石…
漱石と意識・無意識 1914年、大正3年の11月14日、岡田耕三宛の手紙に「意識が世の凡てであると考えるが同じ意識が私の全部とは思わない。死んでも自分はある。しかも本来の自分には死んで始めて還れるのだと考えている。」12月26日(木)先週の木曜会と似た話題が出る。「意識がすべてではない、意識が滅亡しても、俺と云うものは存在する。俺の魂は永久の生命を持っている。だから死は只意識の滅亡で魂がいよい…
軍神 広瀬中佐像 漱石と漢詩 正岡子規の勧めで俳句を作り始めた漱石には、漢詩に導かれて俳句を作りだした面がある。たとえば、次の句である。 馬の背で 船漕ぎ出すや 春の旅 「船を漕ぐ」は、居眠りすることで、馬上で居眠りするとは、杜甫の「飲中八仙歌」の影響ではないかという(和田利男(昭和49)『漱石の詩と俳句』めるくまーる社 p.79)。杜甫の「飲中八仙歌」に次のようにある。 知章騎馬…
「触れ合い体験 実は苦手です」 2022.2.14 月 京都新聞夕刊 1面 のタイトルである。京都動物園で、テンジクネズミ(モルモット)が、実は子供らとの「触れ合い体験」が「苦手」だったことが判明したという記事内容である。コロナで約一年半、幼児との触れ合い体験(幼児がテンジクネズミを抱っこしたり、膝にのせたり、自由に触りまくる)を休止していたところ、以前は消化不良などで治療が必要なテンジクネズ…
漱石は猫派か? 犬派か? 1908年、明治41年9月、『吾輩は猫である』のモデルとなった猫が死んだ。漱石『永日小品』の「猫の墓」の章に、次のようにある。「妻はわざわざその死にざまを見に行った。それから今までの冷淡に引き換えて急に騒ぎ出した。出入りの車夫を呼んで、四角な墓標を買ってきて、何か書いてやってくださいと云う。自分は表に猫の墓と書いて、裏に此の下に稲妻起こる宵あらんと認めた。」…
一 高 漱石のユーモアと真面目さ 漱石のユーモアがわかる有名なエピソードがある。ある日、漱石が一高で講義しているとき、剽軽な学生が「先生! このイン・グーッド・タイムというやつは、何ですか」と訊いたら、そのとき、ちょうど、授業終了の鐘が鳴り、漱石は「すぐ本を畳んで、『放課の鐘が鳴ると、質問があろうが、あるまいが、教師は、イン・グーッド・タイムに、部屋からさっさと、出て行った』と言…
漱石と熊楠 三田村信行(2019) 夏目漱石と南方熊楠は、1867年、慶応三年の同じ年の生まれである。1884年、明治17年の9月に東京大学予備門に同時に入学している。翌1885年、試験の結果、落第した熊楠は、翌年にはアメリカに向かい、1900年まで欧米で勉強、研究している。他方、漱石は1886年、腹膜炎のため、試験を受けられず、留年し、それまでの学業への取り組みを反省し、以後、首席を通す。…
漱石の妻 鏡子悪妻論 1896年(明治29)4月、漱石は第五高等学校に赴任するが、その年の6月8日に熊本で中根鏡子と結婚している。漱石29歳、鏡子19歳であった。鏡子の祖父の囲碁仲間が牛込郵便局で漱石の兄の直矩(なおかた)と同僚だった関係から、縁談が持ち上がった(夏目鏡子(1928)『漱石の思い出』)。鏡子の父は、貴族院書記官中根重一で、結婚式は、重一が鏡子を連れて熊本に行き、漱石の借家の間で…